「過酷な、またお気楽ではない現実」に対して、何とか生き延びようとするために必要な強度と切実度を持ち始めた、アドヴァンスド・ミュージックの新たなる側面
この時代、音楽の力は、考えられている以上に大きくなっている。
2004年(二年前)のsonarsound tokyoのこのパンフレットを見てみると、アーティストへのQ&Aのひとつに「CDがお菓子のおまけになったり、携帯の着メロヒット数が莫大な売り上げを果たしている現在の状況に関して、あなたの考えを聞かせてください」というものがある。お菓子のおまけ、というくだりは、たしか、某大物アーティストがそういった形で新曲リリースをしたことの驚きをタイムリーに込めたのだろう。この質問側の意図は、ちまたに氾濫しすぎて、もはや空気のようになってしまった、いや、空気ならば無くなると困るが、無くても別に困るほどではない、という、音楽の強度の低下を暗に含めている。それから二年後、この質問があまり驚きとして感じられないほどの音楽状況の変化には驚かされるが、その、「氾濫しつくす一方で、強度を失う音楽」という状況判断だけは、裏切られた感じだ。
そう、このところ音楽の力は強くなってきている。
たとえば、電車に乗っている人の耳元には必ず、iPodのイヤホンがつながれ、その数は実感として二年前よりも圧倒的に多いし、彼らの表情からは切実度が伺える。ウォークマン世代だった私にとっては、その登場は「見慣れた街の風景を映画のシーンに変えてくれる」余裕たっぷりのアミューズメント・ツールだった。しかし、iPodを聞いている人と音楽の関係は、「過酷な、またお気楽ではない現実」に対して音楽の力を使って、何とか生き延びようとするための濃い紐帯、のように思える。
二年前のバルセロナのsónarで、ヒップホップ/ブラック・ミュージックが大きくクローズアップされたことを思い出す。その流れは今年にも充分に反映されているが、その潮流はこういった、音楽と人との関係の濃密化を反映しているのだとしたら、大変に興味深い。
そういえば、以前、あるヒップホップのアーティストにインタビューしたときに、彼はこんな言葉を伝えてくれた。
「ヒップホップが他の音楽ジャンルと違うと言うところは、この音楽は、明るい見通しなぞない世の中で、ああ、今日も工場に働きにいかなけりゃいけないというブルーな気持ちを奮い立たせる、生きるために必要な音楽、というところだね。頽廃美や死に向かうロマンを表現したりする、他のポピュラー・ミュージックとは全く違う、今、生きている人に必要な音楽、なんだ」
ヒップホップが持っていたこういった、目的とエネルギーの質は、実はスタイルこそ違え、sonarsound tokyo 2006にラインナップされた、すべての音楽に共通するものだ。音楽的な観点で言えば、ヒップホップの先端は過激にエレクトロニック・ミュージックの未来を切り開き、テクノやエレクトロのジャンルに融合しているが、その強度やスピリットは、今度はテクノやエレクトロの方が、逆にヒップホップのあり方のほうに乗り込んでいるという、交錯のおもしろさが、今回の現場では見えてくるのではないか。ここにある音楽たちは、新たな労働歌なのか?
そもそも、sónarを育んだバルセロナという土地の気風は、首都マドリッドを中心とするカスティーリア地方の中央集権に対し、文化、アートを持って対峙するというカタルーニア地方の反骨精神にある。搾取される側のハードな日常に、音楽やアートが絡むとき、その切実さや強度は倍増し磨かれていくことは、テクノ・ミュージックを生んだデトロイトの状況が証明してもいる。
さて、sonarsound tokyo 2006の舞台は東京。今年本国のsónarでは、ジャパン・イヤーと呼ばれるほど、日本人のアーティストが多く招聘されており、その面々は今回もラインナップされている。これは明らかに、本国が日本人アーティストの表現に強度を感じているからこその選択なのだろうが、果たしてその音楽を生んだ、日本、そして東京の“過酷さ”というのは、何なのであろうか。
音楽と人、そして社会、そんなことを考えながら、三日間のヴァイヴに身を任せてみてもいいかもしれない。
湯山玲子
text by Reiko Yuyama(creative director)
meets sónar 2006 [2006-10-04]